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伊藤 仁美です。
本日から2日間、鳥居先生が主催する、気仙沼ツアーに参加しています。
ある日、突然、人生が一変してしまった現場、現地の方のお話をお聴きして、こうして、日々、普通に生活ができている。
これって、当たり前ではなく、どれだけ幸せなことなのかということに気付かさせていただく、とても貴重で濃厚なツアーの1日目。
大川小学校の真実
まず、はじめに訪れたのは、大川小学校。
他の地域では、親が迎えに来て帰った子が亡くなることが多かった中、東日本大震災で、学校にいながら、生徒が亡くなったのはここだけです。
なぜ、他の学校と真逆のことが起きてしまったのか。
事前にやるべき事をやってないための犠牲です。
他の学校は、津波の防災訓練の通達が来て、訓練をしていた。
津波が来たら、「川や山に近づくな。高台に逃げろ」という鉄則があるにも関わらず、大川小学校では、訓練がされず、津波が来た時の避難場所は、「空き地、公園」と明記されていたとのことです。
今回、貴重な解説をしてくださったのは、佐藤さん。
佐藤さん 小学校6年生の息子さんを亡くしたとのことです。
佐藤さんは大切な息子さんを亡くした後、どうして、佐藤さんは、こうした活動を続けているのか。
それは、一番は、真実を知ってほしい。
報道されていることや、ガイドさんの説明は、事実とは違う説明をしていることが多いです。
そして、一番辛いのは、黒い津波にのまれた子どもたち。
だから、残された大人が辛いだと怖いだと言ってられない。
同じ思いをする親が出ないでほしいという思いから活動されているとのことです。
「服でもなんでも、頑張って働けばお金で買える。」
「だけど、命だけはお金で買えない。」
震災というより、人災で、大切な息子さんを亡くした、佐藤さんの言葉が心に刺さり、命の大切さを教えていただきました。
こうして、見ると、一見、何もないところにあるように見える、大川小学校。
以前は、小さいながら、病院もスーパーも、なんでもあった街だったそうです。
震災が起きた後、学校に残っていた生徒は74人。先生は10名。
奇跡的に助かったは4名。
そして4名が行くへ不明とのこと。
教室には、残っていた時計が3台あり、どれもだいたい3:37を刻んで止まっている。
これが、震災が発生してから、津波の発生まで50分もあったことを証明しています。
こんなに時間があったのに、なぜか、川に近い方の民家の裏側に逃げていた。
本来だったら、この写真の場所。
逃げた方と反対側の丘の上に逃げていれば、丘の上まで津波は来なかった。
日頃から、椎茸栽培や、絵を描くのに、この丘の上には先生も生徒も登っていて、子ども達も、「丘の上に逃げよう。」と訴えていた。
実際に、その丘を登ってみると、確かに、低学年の生徒も、50分も時間があれば、十分、避難できたはず。
実際に、自然科学が専門の先生は、一人でこの丘の上に逃げて助かって、今も休職扱いとなって、姿を見せないとのこと。
そして、震災当日、校長先生はお休み。
震災があっても、みんな翌日の3月12日には学校に来ていたのに、なぜか校長先生が現れたのは、17日。
しかも、スーツで現れ、まず言った言葉は「校長室の金庫を開けてくれ。」。
金庫の中の封筒を取り出すと、さっさと車で帰ってしまい、子どもたちの心配はしていなかったとのこと。
この校長先生も早期退職をして、多めの退職金をもらっていい生活をしているとのこと。
自然災害だからということで、この2人の先生の過失はなし。
74人も生徒が亡くなっても、変わろうとしない教育組織に、とても憤りを感じました。
8年間、次から次へと嘘を塗り固めて、教育組織、校長先生から、保護者への謝罪は一切なし。
公に載せてるのは、震災で生徒が亡くならなかった学校だけ。
失敗した大川小学校は一切ない。
こんな状態の中、真実を伝えたいと、いう想いで、佐藤さんが、真実を伝えてくださりました。
そして、大川小学校の建物はロープが張られ、中に入れないようになっています。
親族と一緒だと、中まで見せていただけるとのことで、今回、特別に、大川小学校の中も見せていただきました。
倒れている廊下は、後者と体育館が渡り廊下になって繋がっていたとのこと。
水だけの力では、こんなになることはないので、コンクリートの瓦礫などがたまった圧力で、コンクリートまで倒してしまう破壊力になっとのこと。
亡くなった生徒も、水死ではなく、何かに当たって、その衝撃で亡くなっているとのことです。
横に長い校舎。教室から見ると、川から離れている教室はベランダのコンクリートが残っているけれど、川に近い教室はダメージが大きく、ベランダのコンクリートが無くなっています。
この違いを見ると、川から遠くに避難することの大切さがよくわかります。
こちらは、下からの水圧で、床が盛り上がってしまった教室。水の威力も凄まじいです。
こちらは、遺体捜索で来た自衛隊が、「子どもたちの思い出も掘り起こせ!」と流れた本や文房具も洗って、建物の中も綺麗にしてくれたそう。
自衛隊は、普通は遺体の捜索だけなので、こうして、片付けまでしてくれたのは、ここだけだそうです。
体育館も、こんな状態になってしまっていて、自然の脅威に、ただただ驚きました。
これだけの、被害なので、自衛隊が来れたのは震災から1週間後。
それまでは、自分たちで瓦礫を片付け、自分の車で、遺体を運んでいて、地獄だった。
二度と、こんな想いをする親や親族を出したくない。
ここで起きたことを教訓に、しっかりと、学校防災を考えてほしい。
佐藤さんは、そんな想いを持って、当時のことを伝える活動をしているとのことです。
移動中に、津波が来た川をバスの中から見れました。
こんな穏やかな川が、あれだけの被害を引き起こしたなんて、なんだか実感がわかず、なんとも言えない気持ちです。
南三陸さんさん商店街
お昼の自由時間は、南三陸さんさん商店街。
何度もボランティアに来ていて、詳しいルパンさんに、いろいろ教えてもらいました。
弁護士の陽子ちゃん、薬剤師の勉さんとご一緒。
タコがたくさん採れるそうで、大きなタコ。
商店街も可愛いタコのでざいんがあちこちに。
私の顔よりも大きい、タコの串。
ルパンさん、超オススメの、たこぷりん。
スイーツ?と思ったら、キッシュのようで、ぷりんとしたタコが入っていて美味しかったです。
夜が豪華なので、量は控えめに、新鮮なお刺身を美味しくいただいました。
岩井埼伝承館
午後は、伝承館で、映像と、震災遺構として保存されている気仙沼向洋高等学校を語り部さんから、当時の様子を教えていただきました。
映像は撮影禁止なので、最初のスクリーンのみ。
当時の、建物や車がまるで、おもちゃをひっくり返すように、どんどん海に引きずり込まれている様子。
大きな燃料タンクすらも破壊し引き込み、それが原因で、市内で17件もの火災が発生。
瓦礫が消防士の行く手を阻み、全ての火災が沈下したのは、なんと約2週間後。
映像から、震災がどれだけ悲惨だったのかが、五感を通して伝わってきました。
続いて、校舎の見学へ。まずは1階の教室から。
引き波でモノは流されてしまうので、中に、こんなにモノが残ってるのは珍しいとの。
たまたま、他の建物が流されてきて、この教室の建物にくっついていたので、被害が少なくて済んだとのこと。
こちらは、1階にある、保健室。
どちらも1階の建物は全て津波をかぶったので、天井まで、被害が大きいです。
こんな風に1階は、天井がほとんど抜けてしまっています。
階段も、こんなに破壊されてしまってます。
津波はなんと、4階まで、到達したとのこと。
3階には、一番メディアで報道されている、津波で押し流された乗用車。
校舎の3階に乗用車が流されてくるなんて、衝撃です。
本も散乱しているけれど、風通しがいいので、保存状態が良いとのことでした。
今回、案内してくれた語り部さんは、こちらの向洋高校の卒業生とのこと。
震災当日は入試が終わってばかりで、採点表などの重要書類が1階にあった。
なので、先生は20人残り、1階にあった重要書類を4階の鍵のかかる部屋に移動。
それでも4階まで津波が来てしまったので屋上へ持って逃げたとのこと。
こんな緊急事態にも関わらず、先生方の責任感の強さに驚きました。
そして、4階の教室へ。
4階だと、真ん中の色が変わっている引き出しまで、津波が来たそうです。
天井も綺麗。
だけど、こんな冷凍工場が流されて教室に激突。
外からみると、こんな状態でした。
震災当日は、3年生は卒業していて、1,2年生の最後の授業日。時間帯は放課後だったので、学校には170名の生徒が残っていた。
地震の時の避難場所は、屋上だけど、あまりにも危ないので、学校よりも海から離れたお寺に逃げたそう。
だけど、津波が発生したことを知り、お寺では低いので、さらに海から離れたところに逃げ、そして、またさらに、中学校に逃げて助かったそう。
こちらの向洋高校に避難した人たちは、みんな、「避難する!」という意識があったので全員助かった。
だれも亡くならなかったから、震災遺構として残った。
だけど、多くの犠牲者が出た避難所もありました。
こちらは、市の指定の避難場所で、先祖代々の言い伝えがあった場所。
にも関わらず、避難場所に到着したら、これで大丈夫と安心してしまい、それ以上、避難するという意識が途切れてしまった。
避難場所でも、今回の尋常ではない震災の大きさには耐えられなかった。
「避難する」という意識の違いが、緊急時に、多くの命が助かるか、亡くなるか。
意識の差が大きく運命を分ける。
日頃からのどういう意識をもっているかがいかに大切かを、実感させられました。
こちらの建物は体育館。
もともとは、上にアーチのような屋根があったけれど、まるで、紙を剥ぐように無くなってしまったそう。
外に出ると、また悲惨な光景。
ここに一体、何台の車があるのか、わかりますか?
見えるのは、奥に2台。手前に1台ですが、奥の下には、さらに2台の車。
合計5台の車が、建物の間で、うずしお現象が起こり、
車が積み上がってぐしゃぐしゃになってったとのこと。
そして、この建物の間に、家の1階部分が無くなって、2階の部分だけが挟まり、中には2名の女性がいて、助かったとのこと。
あまりの衝撃に、説明していただいても、なかなかイメージができませんでした。
この日は6月なのに、風が強くて肌寒い気仙沼。
大粒の雪が降った寒い日に、これだけの恐怖と寒さを体験するとなると、助かったことが本当に奇跡だと思います。
こちらは、語り部さんが、ぜひとも紹介したいと一押しのヒバの木。
平成20年に何本か植えられ、津波を被ったにも関わらず、たった1本残り、なんと、今でも成長しているとのこと。
続いて、館長さんからの当時のお話。
当時は、3年かけて、瓦礫を片付けたり、瓦礫に埋められた人の捜索をしていたとのこと。
瓦礫も、ものによって燃える温度が違うので、分別して片付けなければならない。
鉄と、電線に入っている銅は売れるので、盗む人もいた。
だから、瓦礫を片付けている人なのか、盗みに来ている人なのか、敵か味方かわからない状態での作業だったとのこと。
館長さんは、目に見えないことが見える方。
なので、当時は、夜は作戦会議。
そのまま机の上で寝てしまう。
だけど、寝ると、後ろに人が立って、ここにいるから早く助けてくれと、いろんなことがわかってしまい、お風呂に入る時間もなく、お風呂に入れたのは1ヶ月後くらいだったとのこと。
特殊な能力もある分、いろいろと大変だったと思いますが、そんな館長さんが一番嬉しかったのは、人の支援。
阪神淡路大震災の経験者が支援に来てくれた時はとても心強かったとのこと。
お金や物資の支援はその場で終わるけれど、人の支援は、ずっと続く。
当時の方とは、今も8年間経っても続いてる。
この日は、何度も、人との繋がりというワードを聞き、人との関わり方についても考えさせらました。
気仙沼大橋
その後は気仙沼大橋で、バスを降りて、歩いてみました。
橋の上からはカキの養殖場。
3月にものすごく美味しいカキが食べれるとのことで、3月にも来たいです。
シャークミュージアム
1日目の最後はシャークミュージアム。
自動販売機よりも、はるかに上まで津波が来たことが看板であり、そんな大きな津波が襲ってきたら、ひとたまりもないなと、ゾッとしました。
ミュージアムでは、まずはドキュメンタリー映像。
大切な人を亡くしても、なんとか立ち直って生きて行こうとする、みなさんの姿に、涙が止まりませんでした。
大切な人が生きている。それだけで、いかに幸せなことか。
大変なこともあるけれど、悩んでいる場合ではないなと奮い立たされます。
その後はシャークミュージアムでサメについて様々な角度から学びました。
サメってまるまる食べられること。
こんなにいろんな商品が作られていること。
サメの生態など知れておもしろかったです。
私はダイバーなので、ますます海の中でサメに会ってみたくなりました。
二次避難所になったホテル
ホテルに到着したら、二次避難所の責任者をやっていた小泉部長からも当時のお話をお聴きしました。
ライフラインの復興までなんと50日もかかり、5月1日にやっと、使えるようになったとのこと。
一次避難所は体育館で、こちらのホテルは二次避難所になったとのこと。
高齢者、子どもの多い家族から優先的に二次避難所に入れ、ホテルに移動してきたおばあちゃんは、「泣きたい時に泣け、笑いたい時に笑えるスペースを提供してくれてありがとう。」と拝みながらお部屋に入っていったとのこと。
他の二次避難所は8月くらいまでだったのに、こちらのホテルでは、最後の避難者が退出したのは12月30日だったとのこと。
そして、小泉部長はプライベートでは、震災当日は、お休み。
娘さんもお休みで、危険な場所に、出かけていったとのこと。
最後のメールは、「マンションみたいなところの屋上にいるから大丈夫。」とメールがあったっきり、連絡が取れなかったとのこと。
ラジオで、犠牲者・行方不明者の人数が発表されるのを聞きながら、大切な娘さんを助けに行きたいけれど、奥様に「今行ったら死ぬから。」と止められていたとのこと。
生きた心地のしない時間だったろうと思います。
歩いて帰ってきた娘さんは、瓦礫で怪我をしていて、お風呂にも入れない。
寒さと恐怖で歯をくいしばりすぎて、食事も柔らかいものしか食べられない状態だったとのこと。
屋上では、襖を風除けにしたり、キャベツにマヨネーズをかけて一口食べただけという生活をして命をつないだとのこと。
父親である、小泉さんも、「当時はとても、様子を聞けなかった。」
「今だからこそ少しずつ聞ける。」とおっしゃっていた様子から、当事者の方たちがどれほどの恐怖を体験したのかが伝わってきました。
豪華すぎる宴会
鳥居先生の大人の旅シリーズと言えば、食事が豪華。
今回もすごいんです。
このウニ。特別なエサだけを食べていて、しかも生きているので、触ると動くんです!
大きなフカヒレ。とても上品な味でした。
大きなアワビまで。
豪華すぎるお刺身。
他にも、マンボーや、フカハムなど、初めて食べる食材も。
さらに、鳥居先生から、フカヒレスープのプレゼントまで。
たくさんの種類を味見して、クオリティーの高いものをプレゼントしてくれたとのことで、楽しみです。
さすが、鳥居先生。
全て、徹底してこだわっている、旅の1日目も、とっても素敵な時間を過ごさせていただきました。
投稿者プロフィール

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スピリチュアルカウンセラーの伊藤仁美です。
今までは、彼に遠慮して、我慢ばかり。そんな苦しくて辛い恋愛を卒業して、運命の人に一番に愛されるようになります。そして、ありのままの自分自身を愛せるようになって、本当に自分らしく輝けるようになれるようカウンセラーとしてサポートしています。
詳しいプロフィールはこちら。
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